「毎年、あなたの写真をお父様にお送りしてるのよ」
と美しい微笑みで母は答えた。それを聞くと、我慢ができなかった。胸が大きな鼓動を打ち、母の足元まで歩み出ると、小さな声で尋ねてみる。
「お父様は、どこにいるの?」
ナターリアは、娘を抱き上げて居間のソファーに座った。膝の上に娘を降ろして、顔を近づける。その顔はいつも通りの微笑んだ顔から変わっていない。
「お父様には、そのうちにお会いできるわ」
娘への答えにはなってなかったが、それが答えであった。
「お父様は、ご立派な方よ。とてもお忙しいの。でもお父様のお陰で、こうしていい暮らしができているのだから感謝しなくてはね。私も他の方と結婚するのも面倒だし」
「お母様はお父様と結婚しているんじゃないの?」
母の言葉は、よほどショックだった。少女にはその意味がわかろうはずも無い。
「あなたも大人になれば、わかるわ」
母は娘の頭を優しく撫でた。それが話はお終いの合図だ。ミレーヌはそれ以上、何も聞けなかった。
その母が死んでしまった、と目の前の女は言う。そして今、「お父様」という単語がこの部屋に飛び出した。ミレーヌが知りたくて、会ってみたい、お父様が。
少女は何も言葉が出なかった。頭の中が混乱して、何も考えられなくなっていた。立っている脚に力が入らず、その場に崩れ落ちるように感じたが、床に倒れる前にオルガ・ワトーが彼女を抱きしめて守った。
簡素な葬儀や、住んでいた高級マンションからの引っ越し、メイドのマルタの再就職先までオルガは手配した。たっぷりの退職金に「今までの事は他言無用に」の言葉を添えて。マルタは今までそばで過ごしてきた幼い少女を残して職を去る事に心の痛みはあったが、わけありの父親に引き取られていくのなら何も言えない。一介のメイドに何ができるだろうか。もはや自分は用済みなのだ。
葬儀に埋葬を終えたら、そのまま海外へ旅立つと言う。非常識とも思えるような慌ただしい出立だ。マンションの部屋は後で業者が来るので任せてあると言う。ナターリアの葬儀にも参列したかったが、それはオルガに丁重に断られた。口には出さなくても、わけありの父親が来るのかもしれないと納得するしかない。美しい母子の夢のような生活が、こんな形で終わるとは思わなかった。
「お嬢様、ここでお別れです」
マルタは、オルガ・ワトーと共に教会へ向かうミレーヌに別れの挨拶をする。あれから5日、ミレーヌは言葉を発していなかった。食事も固形物は満足に喉を通らなかった。無理もない。あまりにも突然に母親と別れ、今まで存在の無かった父親の影が現れたのだから。
少女は両手を広げてマルタの胸に飛び込んだ。無言のまま、マルタのふっくらした体を小さな手で、抱きしめる。マルタの両腕も幼い少女を抱き包んだ。
「お嬢様に神の御加護を」
不覚にも、マルタの頬を涙が伝った。
教会に置かれた棺の中の母ナターリアの顔は、事故で飛び散った窓ガラスの破片でいくつかの傷が付いていたが、葬儀屋が防腐処理(エンバーミング)して上手に化粧の施された、気にならない程度で美しさを留めていた。大きな細長い旅行鞄のように、蝶番で片開きの蓋が開いた状態の棺は、表面が美しい真紅のドレープのある布で覆われていた。
葬儀に立ち会うのはミレーヌとオルガのみ。車を運転していた母の男友達は重症で入院中だが、幼い娘にそれが知らされる事は無かった。
司祭の祈りが終わり、故人に最後のお別れを、と2人しかいない参列者に呼び掛けられた。
小さなミレーヌはオルガに持ち上げられて、棺の中を覗き込む。ミレーヌには、ただ眠っているようにしか見えなかった。王子様が抱き起こせば起きるのではないかしらと、ぼんやりと夢想してみる。しかし母の頬に軽くキッスをしたが、触れた唇には冷んやりとした感触があるだけだ。
棺が閉じられ、控えていた葬儀屋達が、蓋の片側に閉じる釘を打ち始める。それは本来、参列する親族の役目であったが、この小さな葬儀では手が足りないからだ。ゴン、ゴンと鈍い音が辺りに響く。その音はミレーヌの耳を強く刺激し、初めて言いようのない不安と恐れと、悲しみを沸き立たせた。母の死が現実として押し寄せてくる。今、一枚の木製の蓋が母と自分を隔てようとしているのだ。蓋の向こうの母には、二度と会えない。それが「死んでしまう事」なのだと、今さらに気づいた。
「やめて!やめて!お母様!お母様!」
少女の声は教会中に響いたが、棺に近づこうとした彼女はオルガに後ろから抱きすくめられた。
「お嬢様、もうお別れなのです。どうか、わかってください」
母を呼ぶ涙混じりの声は、やがて泣き声だけに変わっていった。
泣き疲れたのか、ミレーヌはひくひくとしゃくり上げながら、棺の埋められた母の墓地を見つめている。暗く濁った雲の間から、ちらちらと落ちる雪が振り散らす花のように、埋め戻されてまだ柔らかい土の上に落ちてゆく。例年より早い初雪だった。オルガから手渡された花束を、その場に置いた。母の好きだった赤い薔薇の花束を。
「ミレーヌ様、これからは私と共にパリでお暮らしになるのです。まいりましょう」
母親によく似た目は泣き腫らして周囲は赤くなっていたが、ぼんやりとこちらを見つめ、しかし何も言わない少女に、オルガは続けた。
「生活が変わりますが、大丈夫です。これからは私が付いております」
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