形の無い月 (6) パリ16区 2

2021/09/12

二次創作 - 形の無い月

 すまなそうにオルガが謝った。あまりに率直に「ごめんなさい」と言われたので、ミレーヌは戸惑う。子供に対して大人が謝るのは、たまたまぶつかった時 ——マルタがミレーヌに気づかず掃除機を掛けながら後退した時とか—— くらいなもので、会話の内容で謝られるとは思わなかったからだ。顔を上げて、オルガを見つめてみた。
「少ないの?」
 オウム返しに口に出す。
「はい、少ないです」
「⋯⋯わかった」
 どうやらこれで手打ちになったようだ。素直な性格かもしれない、だが素直な子は我慢しやすいとも聞くから、よく観察して無理の無いように成長させなくてはと、オルガは自分に課せられたこの仕事を思った。ひと息ついて、話を戻す。
「あなたがある程度、フランス語がわかるようになったら、私もフランス語で話すようにします。ところでロシア語の文字は⋯⋯絵本は自分で読めますか? 」
「少し、読める。マルタが読んだから」

 オルガはミレーヌ母子が住んでいたモスクワの高級マンションには訪れて、その暮らしぶりは想像できた。しかしその生活までは、わからない。母でなく、あの中年のメイドが絵本の読み聞かせをしていた、という事はその一端を感じさせた。母親の自動車事故の時、運転していたのは20代の名も無い画家だった。
 手帳にペンを走らせながら、質問を続ける。
「それから、あなたは泳げますか? プールで泳いだ事がありますか?」
 身の安全を考えるならば、泳げるに越した事はない。
「わかんない」
「では、スイミングスクールも探しておきます」
 多くの子供たちが習う教室でも、金額次第で個人レッスンは可能だろう。水泳なら全身運動だから、体の発達にもいい。資金に関しては悩む事は無かった。
 それでは、とオルガは手帳を閉じると顔を上げ、ミレーヌと目を合わせた。
「1週間後からは、ロシア語とフランス語で頭が一杯になると思います。でも、その方がいいのです。悲しい事を考えなくてすみます。悲しみは無くなりませんが、とりあえず横に置いておきましょう。あなたがもっと大きくなって、悲しみと上手く付き合えるようになるまで」

 ミレーヌには言われている事がよくわからなかったが、悲しくならないのなら、いいと思えた。
「泣くなとは言いません。泣きたい時は泣いていいのです。私はハグもできます。けれど泣いてばかりでは、生きていけません。あなたは、生きるためにここに来たのです」
 少女の小さな世界は、今まで母とマルタしかいなかった。時たま、散歩でマルタと公園に行った時に挨拶をして遊んだ子はいたが、次に行った時は別の子で、友達と言える子供はいなかった。
 そばにいる時間は少ないが優しい母と、メイド仕事の合間にかまってくれるマルタ。そのどちらでもないオルガから話される言葉は、口にとろける甘いクリームでも、ジャムを乗せたクッキーでもなく、硬いビスケットのようだった。ボリボリ噛み砕かないと、消化できない。その行為はミレーヌの焦点の定まらない感情や思考を、集約させるのに役立っていた。
「生きるの?」
「生きましょう、私と」
 オルガは微笑んだ。母のような優雅さは無かったが、優しさはあった。
「それと、これからはあなたをミレーヌ、と呼んでもいいでしょうか? 他人同士が住んでいるというのは、世間⋯⋯他の人には不思議に思われてしまいます。私は、あなたの叔母という事にしておきたいのです」

「おば?」
「親の妹、という意味です。叔母さんになります」
「オルガはおばさんじゃなくて、お姉さんでしょ」
 ふふっ、とオルガは軽く笑った。母娘にするには年齢的に少々無理があったし、第一、ミレーヌに母と呼ばせるのは酷すぎるので叔母なのだが、5歳の子に説明するのは難しい。
「ありがとうございます。私は23歳なのでお姉さんですが、形としては叔母なのです。ミレーヌ、と呼んでもいいですか? 私の事はオルガでいいですから」
 うーん、とわからない顔をしながら、少女はオルガの顔を見つめ、次に顔を伏せ、小声で言った。
「ミレーヌと呼ぶのはお母様だけよ」
「お母様の他に、叔母も入れてはもらえませんか? それにいずれ来るロシア語やフランス語の先生もミレーヌと、呼びます」
「そうなの? どうして?」
「それが普通です。だから、それに慣れてください」
 フツウが何なのかはわからなかったが、どうやらイヤとは言えないのだと少女は理解するしかなかった。

「わかった」
 不機嫌そうに答える事で、不満を現した。オルガはそれに気づかぬふりをする。
「では、お話はこれで終わりです。今日は、これからどうしますか? この家は急いで用意したので、あなたのための絵本もオモチャもありません」
「何もしたくない」
 少女は、また目を伏せる。
「部屋で、泣きますか? それとも外に出ますか? ここパリには美術館や博物館があります。あなたなら国立自然史博物館が楽しいと思います。それとも動物園か、水族館」
 動物園、その言葉を聞いた時、絵本で見た動物園の絵を思い出した。ミレーヌは動物園も水族館も行った事が無い。どんなとこなんだろう、伏せていた目が、少し、角度を上げた。
「動物園⋯⋯行きたい」
 ぼそりと、口に出してみる。オルガは椅子から立ち上がると、子供椅子に近づき、小さな手を取った。
「わかりました。では動物園に行きましょう、ミレーヌ」
 動物園を見終わったら、ストリート・ピアノを見せてみるのもいいかもしれない。興味を示せばピアノレッスンを追加しよう。音楽の素養も悪くない、ピアノはサロンに置いて私が教師の通訳をすればいい、とオルガは素早く今日の計画を立てる。
 奇妙な「叔母と姪」の生活は、パリ16区、ブローニュの高級住宅街の一角にある、アール・ヌーヴォー建築の邸宅で始まろうとしていた。

小説の匣

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