形の無い月 (2) 序章 2015 エカテリンブルク2

2021/08/21

二次創作 - 形の無い月

「ねえ、私をあなたの情婦にしてくれない?」
 再び静かに話す女は、もう無表情では無かった。年の頃は20代半ばほどか、若々しいつややかな白い肌に、少々鼻筋が高かったが、濃いマスカラで強調された潤んだ青い瞳は男を誘い、赤く彩られた唇はその端を少し上げていた。
 両袖口に開いた花のようなレース飾りがあるだけのシンプルな、しかし上質な黒のロングドレスは、開いた胸元に輝くネックレスがよく映えた。女はその場にいた男達を観客にして、その視線を一身に受けるに値する艶かしさを帯びていた。
 フューラーの黒メガネの奥の目は、少し見開いたかもしれない。

「この冬空に、どこに行けって言うの? 私には帰る場所なんて、無いの。お腹を空かして雪の中をさまようなんて、ごめんだわ。アレンスキーは死んでしまったんだもの。この地域があなたの物なら、今度は、あなたにお仕えしたいの」
 女は今、自分の主人を殺した男に情けを求めたのだ。彼は鼻で軽く笑った。
「それで私の寝首を搔こうというのか? 死んだ男のために。随分と殊勝な情婦だな」
「寝首を掻いて、どうするの? マフィアの情婦だった私に、今度は何になれというの? 私は贅沢に暮らせれば、それでいいの。アレンスキーは魅力的なパトロンだったわ。だからお礼を言ってお別れしただけ」
 首を少し右にかしげながら、女は微笑む。

 フューラーとて今まで女の影が無いわけでもない。組織が大きくなるにつれ、女達は「愛してるわ」「あなただけよ」と空々しい事を言いながら、彼の持つ金を目当てに群がるのが常だった。空虚な言葉を聞き流しながら、女を抱いたものだ。
 だからこそ、ここまで素直にあからさまに自分の実利を提案してきたこのロシア女には、いっそ清々すがすがしさがある。女の顔を見つめる彼の、その頬がかすかに緩んだ。
「いいだろう。ついて来い」
 その答えに女は満足そうな笑みを浮かべ、床に落ちていたミンクのショールを拾い上げ、身に纏った。いくつか血のシミがついていたが、その身が落ち着けば、新たなパトロンがもっと上等な物を買ってくれるだろう。
 いかつい男達はボスの後ろに続いて歩く新しい愛人に無言で道を開き、玄関に横付けした黒光りするリムジンのドアを開けた。
「名はなんだ?」
 振り向きもせずにフューラーが尋ねる。
「私、ナターリア・サベリーエワよ。フューラー様」
 凍える外気に肩をすくませながら、女はフューラーの後を追い、リムジンに身体を滑り込ませた。


→モスクワ 1 

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