形の無い月 (3) モスクワ1

2021/08/31

二次創作 - 形の無い月

 玄関の呼び鈴が鳴った。メイドのマルタが掃除機を止めて、玄関に向かう。母が帰ってきた、居間のソファーで両肘を突き、うつ伏せで絵本を眺めてい少女は、本を閉じて起き上がり、「ただいま。ミレーヌ」と自分に向けられる優しい眼差しを待つ。朝、いつものようにマルタに着替えをさせられて朝食の席に着いた時、向かいの椅子が空席な事で母の不在を知る。ならば今、呼び鈴を鳴らすのは母に違いなかった。
 しかしマルタに続いて現れたのは、見知らぬ女だった。お嬢様にお客様です、とマルタが言う。
 濃いグレーのシンプルなパンツスーツの女は、ミレーヌの視線の高さに合わせるようにその場に片膝を付くようにしゃがみ込み、暗く憂いのある表情で静かに、口を開く。
「ミレーヌお嬢様。残念ですが、昨夜お母様がお亡くなりになりました」
 壁掛けの振り子時計が10回、鐘を鳴らした。部屋には、しばしの沈黙があった。

「奥様が亡くなった? そんな!」
 来客にお茶を淹れようとキッチンに向かうはずだったマルタは、中年太りの体を揺らせて振り返り、両手で自分の口元を覆った。
 普段から、奥様と呼びながらも薄々そうではないだろうと思ってはいた。なぜなら彼女の給金はこの部屋の主、ナターリア・サベリーエワからではなく、外資系のとある企業から支払われていたからである。
 モスクワ郊外のネオ・スターリン様式の重厚な高級マンション、相場よりずっと高い給金に「わけあり」な雇い主。腹部が膨らみ始めた美しい女主人に仕えるようになって以来、「旦那様」にはついぞお目にかかった事は無かったが、無用な詮索はすまいと決めていた。口が硬い事は美徳であり、それがメイドだとマルタは思っている。第一、こんな条件のいい仕事の口を無くすなんてまっぴらだった。
 ロシアは失業率は低いが、その分賃金が安い。不景気でも解雇の代わりに賃金カットされるのが常だ。成人した2人の息子達だって未だに独身で、安月給でヒイヒイ言っている。大酒飲みの夫はとうに病で他界していた。

 そして今日は、小一時間前に雇い主の企業から電話が入り、人を寄越すので今後は彼女に従うようにと伝えられただけだった。てっきり自分への用だと思っていたのだが、迎えた訪問者はお嬢様にお取り次ぎいただきたい、と言ったのだ。
 彼女は、マルタの方を振り向きもせず、左手を肘から軽く挙げて遮るようにジェスチャーした。
 フランスなまりのロシア語を話す女は、明るい栗色の髪をきっちりと後頭部でまとめ、化粧も控え目だったが、母よりもずっと若かった。けれど5歳のミレーヌには、アクセントの不自然さの理由も、女の年令の見分けもつかず、その言葉の意味すらわからなかった。何も言わずに不思議そうに見開いた少女の緑色の瞳は、ただ訪問者の顔を見つめている。視線の先の口が再び開いた。
「お母様は昨日の夜、乗っていた車が事故を起こして死んだのです」
 死んだ、という単語は理解できた。絵本やテレビの中のお話で、死んでしまうキャラクター達。
「死んだの? お母様は死んだの? お母様は帰ってこないの?」
 単語を理解できても、現実感が無かった。漠然と、死とは、眠って起きなくなる事なんだろうと思っていた。
「申し遅れました。私はオルガ・ワトーと申します。お父様からあなたのお世話を仰せつかりました。オルガとお呼びください」

 ミレーヌと母の関係は希薄であった。家事はメイドのマルタがこなしていたし、母は観劇やバレエ鑑賞、美術館や乗馬が好きで、よく家を留守にして、外泊する事も珍しく無かった。着飾って出かけて行く母をマンションの入り口に彼女を待つ車がある。8階のこの部屋の窓から見下ろせば、車から降りて母のために助手席のドアを開ける男の姿が目に入った。時おり、その車と男は変わっていたが、小さな少女は車の色が変わった事くらいしか気付かなかった。
 母は庇護者であったが、母の前では喜びと共に少なからず緊張があった。物心ついた時からそばにいるのはメイド兼乳母のマルタで、公園まで散歩したり、絵本を読んでくれるのも、寝かしつけるのも彼女であったからだ。
 それでも美しい母が好きだった。透明感のある白い肌に明るい金色の髪、猫のようなアーモンドの眼は長い睫毛で覆われていて、微笑むと優雅に陰を落とすのだ。母が居ない時は、その部屋に入って母の痕跡をたどってみたりもする。
 飾り棚の上の花を模した細く美しい金細工が表面を飾る宝石箱、ベッドの上に残されたスルスルと手のひらを撫でていくシルクのガウン、アンティークの鏡台に並ぶ美しい化粧のガラス瓶。そして鏡の中に映る自分を見ては、もっと白い肌と、焼き栗のような髪色でなく、輝く黄金の髪になりたいと思っていた。目元と口元はそっくりですよ、とマルタは言うが、そうは思えなかった。
 母に何かを怒られたり叱られた事も無かった。そもそも母が怒ったり大声を上げた事などあっただろうか。ミレーヌが見る母は、いつもたおやかに微笑んでいた。

 新しい服を買いに行く時は、母と一緒で嬉しい時間のひとつである。成長したミレーヌの服が小さくなると、娘を連れてモスクワ中心部の高級百貨店に行き、有名ブランド店であれこれ試着させては複数の品を選び、マンションに届けさせた。
「かわいいわ、ミレーヌ。天使様のようよ。あなたは美しい物に囲まれて過ごしてちょうだいね」
 ミレーヌの肩より伸びた波打つダークブラウンの髪を撫でながら、母は満足そうに微笑む。ふっくらとした頬にキッスもしてくれる。
 そして毎年、娘の誕生日になると写真館から人を呼び、彼女を着飾らせて写真を撮らせた。仕上がった写真は居間の暖炉の上の写真立ての中の、昨年の物と入れ替えられる。もちろんミレーヌは去年の事もよく覚えていないが。
「今年も、とても良く撮れているわ。お父様もお喜びになるわよ」
 つい先月、母は娘にそう言った。
「どうして、お父様?」
 少女は唐突にでてきた単語に驚いた。それは日常、耳にする事の無い単語である。



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