写真をロッカーに預け、少しは心の重荷が軽くなったが今の時点では週明けまでは動きようがなかった。就業後は、ぶらぶらとセーヌの川べり沿いの道を歩いて『銀の猫』へ向かう。11月も半ばを過ぎ、日はみるみる短くなっている。夕焼けにもならない曇天の空は陽が沈みかけていた。
1kmと少しの間、レティシアの事を心に浮かべて、気分よく歩く。途中では、観光客らしき若いカップルとすれ違う。セーヌ河岸へと分かれた道へ降りていくので、ボートツアーの発着所へ向かうのだろう。腕を組み、時おり互いの顔を見合わせては、笑っている。そんな男女の姿は微笑ましくも、うらやましくもあった。
「ボンソワー、ムシュー・ラギエ」
他の店員の声に混じって彼女の声が響く。軽く挨拶を返して、ジェロームはいつも通りにカウンターの席についた。今週は、これで2回目であるのが気恥ずかしい。おそらく他の店員にも、自分がレティシア目当てで通っているのは丸わかりだろうと思うと赤面する恥ずかしさだが、それであきらめられるのなら苦労はしないのだ、と己に言い聞かせる。
そして当の本人である彼女自身はどう感じているのだろうか、とも思う。嫌がられてはいないだろうとは思えるので、地道に心の距離を近づける努力をしたい。
「最初は、いつものでよろしいですか?」
彼のそんな羞恥心など知らぬように、薄い笑みで彼女がたずねる。いつもの、とは目下、彼のお気に入りのグラスにブラッディー・メアリーである。あの薄いグラスの与える快感は、なんとも言い難かった。唇に吸い付くグラスと、流れ込む赤い液体。その色は、出会った時の彼女の口紅を思い起こさせた。
その日は、つまみにチーズの盛り合わせを頼み、2杯目は最初と同じウォッカベースのカイピロスカを注文した。まだ見習いの彼女に頼むのだから、これもビルドのカクテルであるのは抜かりない。今のジェロームは彼女にだけ、酒を作って欲しいのだ。
「承知いたしました。ただ残念ですが、ロックグラスにあの薄いのはありませんがよろしいですか?」
たしかにそれは少し残念ではあった。今まで薄いタンブラーを使うために、それに見合ったオーダーにしていたのだ。かまいませんよ、と答えたが、それはそれでいいのかもしれないと思い直す。店に来て最初の1杯、そのためにあのタンブラーを選ぶ行為が彼女との記憶の再現になる。
2杯目のロックグラスは切り込みの装飾のある物で置かれた。もちろんレティシアは他の客の注文をこなしたり、チーフバーテンダーの手伝いをしたりもして、ずっと彼のそばにいるわけでもない。ジェロームはグラスを傾けながら、カウンターの中で動く彼女の姿を目で追って楽しんでいた。
普段なら2杯飲んで帰る所だが、今日は3杯目も注文する。
「⋯⋯最後に、ネグローニをお願いします」
食前酒として有名ではあるが、ジン、カンパリ、スウィートベルモットが3分の1ずつの、少し強めのカクテルだ。彼女に言い出す勇気を出すために、少しばかり酒の力を借りようとしている。
レティシアが自分の方に近づいてきたのを見計らって、目の前に置かれたネグローニのロックグラスを半分ほど飲むと、話を切り出してみる。
「実は⋯⋯禁煙しようかと思ってるんですよ。喫煙者にとっては、どうにも暮らしづらい世の中になってきましたし、健康のためでもあります。じきに30も半ばですから」
「健康のためなら、それもよろしいですわね。でもお酒をやめるとはおっしゃらないでくださいね」
同じ喫煙者である事などおくびにも出さず、店には来て欲しいと、バーメイドとして常識的な返答と、少し茶目っ気のある笑顔が返ってきた。客であるジェロームと個人的に店外で会った事は、ほかの従業員には秘密なのだろうと了承した。ふたりで秘密を共有しているような高揚した気持ちになり、顔がほころびそうになる。周りにそれを悟られないように彼は目線を落とし、上着の内ポケットからジタンの箱を取り出した。
「それで⋯⋯しばらく、これを預かってもらえませんか? 吸いたくなったら、降参します。それまでは誰かに見張っていてもらえれば、努力も続くかもしれません」
彼女はジェロームの提案に、少し驚いたような顔をして、カウンターの上のジタンを見つめた。
「まあ⋯⋯。私がお預かりしていて、よろしいんですの?」
「あまり身近すぎる相手だと、降参の旗が近くにありすぎて、飛びつきそうで。ご迷惑でしょうか?」
これで無理のない説明になっているだろうか、変に思われないだろうかとレティシアの顔を見つめた。目が合った彼女は、目を細めて了承してくれる。
「では、大切にお預かりしますわ。うまく禁煙できますように!」
そう言って、きれいな長い指が、ジタンの青い箱を持ち上げていった。上手くいった、彼女にジタンを預かってもらえたと、緊張で体が汗ばんだくらいである。自分の物であったタバコの箱が、彼女の元に預けられている、そんなささやかな結び付きに顔が熱くなってきた。それはジェロームの大切なお守りだ。
「ありがとうございます。ご協力に感謝します。もちろん酒はやめませんから!」
うふふ、と彼女の笑みがこぼれた。
今日は気分のいい夜だった。いや彼女の顔を見た後なら、それはいい夜に違いないのだ。店から出て、エレベーターが来るのを待ちながら、ほろ酔いの彼はいつも通りにレティシアとの会話を反芻していた。彼女の顔やしぐさや声が、アルコールと共に体の中を巡っているようである。もしやこれが恋わずらいというやつなのだろうか、と少年のような素朴な疑問を感じたりして、また、ひとり顔を赤らめる。
言葉どおり、来週末まで禁煙するつもりだ。それから白旗を挙げて、彼女からジタンを返してもらえばいい。心配事を外に置いて、きっとこれで上手くいくはずだとエレベーターに乗り込んだ。
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