工業団地入居のための最終プレゼンまであと1週間である。ジェロームは確認したい事があってクラヴリー局長へ内線電話をかけてみたが、別の者が出た。
「クラヴリー局長は本日は胃痛で、医者に行くそうでお休みです」
受話器から伝わるその言葉に、彼の心臓はキュッと縮まったように感じた。自分が送った手紙が局長の手元に届いたのだろうか。ショックのあまり、局長は胃炎を起こしたのかもしれない。受話器を置くと握っていた手のひらには、じっとりと汗がにじんでいた。
そのまま普段通りに仕事をし、普段通りの時間に自分のアパルトマンに帰ってきた。だが今日はいつもと様子が違っていた。建物の前の道にパトカーが止まっている。表の扉を過ぎて中に入ると、上の方から人々の声がする。彼の部屋は5階だ。エレベーターも無いので、階段を上がっていくとその声はだんだん大きくなる。自分の部屋のドアまで来ると、その声が上の階で話しているのがわかった。
ちょうどその時、階上から警官が降りてきた。何かありましたかとたずねると、7階の屋根裏部屋から空き巣が侵入して、6階の部屋も荒らされたと言う。警官はジェロームが鍵を差し込もうとしていたドアに軽く目をやった。
「そちらは大丈夫のようですね。上の部屋はドアの鍵を壊されてました」
パリの多くのアパルトマン同様、この建物は7階建てで、各フロアに中央の階段を隔てて2部屋ずつあった。たしかにこの手の建物の空き巣は、地上階(0階)か、あるいは最上階の被害が多い。地上階は当然ながら、最上階は屋根づたいに入れるからだ。この建物は間取り的にも単身者向けである事から、昼間は住人の不在が多い。真っ昼間に空き巣に入られたというわけだ。
「クラヴリー局長は本日は胃痛で、医者に行くそうでお休みです」
受話器から伝わるその言葉に、彼の心臓はキュッと縮まったように感じた。自分が送った手紙が局長の手元に届いたのだろうか。ショックのあまり、局長は胃炎を起こしたのかもしれない。受話器を置くと握っていた手のひらには、じっとりと汗がにじんでいた。
そのまま普段通りに仕事をし、普段通りの時間に自分のアパルトマンに帰ってきた。だが今日はいつもと様子が違っていた。建物の前の道にパトカーが止まっている。表の扉を過ぎて中に入ると、上の方から人々の声がする。彼の部屋は5階だ。エレベーターも無いので、階段を上がっていくとその声はだんだん大きくなる。自分の部屋のドアまで来ると、その声が上の階で話しているのがわかった。
ちょうどその時、階上から警官が降りてきた。何かありましたかとたずねると、7階の屋根裏部屋から空き巣が侵入して、6階の部屋も荒らされたと言う。警官はジェロームが鍵を差し込もうとしていたドアに軽く目をやった。
「そちらは大丈夫のようですね。上の部屋はドアの鍵を壊されてました」
パリの多くのアパルトマン同様、この建物は7階建てで、各フロアに中央の階段を隔てて2部屋ずつあった。たしかにこの手の建物の空き巣は、地上階(0階)か、あるいは最上階の被害が多い。地上階は当然ながら、最上階は屋根づたいに入れるからだ。この建物は間取り的にも単身者向けである事から、昼間は住人の不在が多い。真っ昼間に空き巣に入られたというわけだ。
空き巣はめずらしいものでもないが、経験したいものでもない。ジェロームもずいぶん前に、別のアパルトマンに住んでいた時に空き巣に入られた事がある。いくらかの現金と、腕時計などが盗まれていた。
「それはお気の毒でしたね。私の部屋は大丈夫です」と、警官に答えて鍵を開けて自室へ入る。
しかし、なんだか気になる。本当にこの部屋は大丈夫なのだろうかと。むろん、ついさっき自分でドアの鍵を3つ開けて入った。特に問題は無かった。気のせいなのか、部屋に入った瞬間に他人の気配を感じた。なぜそう感じるのか、微妙な空気の違いだ。あるいは匂いの違いと言ってもいい。自分以外の匂いが残っているように感じた。いつもの部屋とはほんの少しの違和感がある。
壁際の小型デスクの引き出しを開けてみるが、特に変わった所はないように思えた。鍵付きの引き出しもあるが、鍵はかけずに中には20ユーロ程度を入れた封筒は置いてある。ダミー金として、空き巣が入った際に『土産』として盗らせておいて、それ以上の被害を防ぐための物だ。その封筒も中身ごとあった。クローゼットの奥に隠してある銀行通帳も無事である。
そして現時点で一番重要な物、本棚から分厚いサルトルの『存在と無』を取り出した。ページをパラパラめくると、挟んでおいた封筒は確かにあり、中身の2枚の写真もある。サルトルの2つ下の棚にあるオペラの『ラ・トラヴィアータ』のパンフレットにはレティシアからの宝物、メモ用紙も変わらぬままだった。
ただの気のせいなのだろうか、上の階の空き巣に神経が過敏になったいるのかもしれない。それも2枚の写真という秘密を抱えているからではあるのだが、と災難な案件にため息がもれる。冷蔵庫からミネラルウォーターの瓶を取り出すと、グラスに注いで一息に飲み干した。冷えた水が喉に涼やかな道を作っていく。
着替えようと思い、カーテンを閉めようとデスク横の窓に近づいた時に、気がついた。デスクの下にゼムクリップがひとつ落ちている。先ほど引き出しの中を改めた時に落ちてしまったのだろうか。デスク周りの床は椅子を引いたりして音が階下に響くのが嫌なため、ラグを敷いてある。クリップが上着の袖に引っかかって落ちたとしても、音はしなかっただろう。クリップを拾い、再び引き出しを開け、文具類を入れてあるトレイの上段のクリップ用の凹みに戻そうとした。
だが本当に自分が落としたのだろうか、そんなことも考える。2段になっている文具トレイの上段は下段より半分くらいのサイズで、上段をスライドして下段のペン類を取り出せるようになっている。誰かがこの文具トレイを動かし、あるいはトレイそのものを取り出し、引き出しの底を確認して、クリップが落ちたのではないだろうか。指に挟んだままのクリップをながめ、ひどく嫌な想像が働いた。
誰かが部屋に入っていたのだとしたらその目的は、と考える必要もない。ダミー金すら残っているのだから、目的は金品以外だ。それは今、自分の手の内にある、2枚の写真なのだろうか。しかし即座に彼はそれを否定する。バカな事を、たかが写真のために住居に侵入するなんてあり得ないだろう、ドアの鍵だって壊れていなかったし、と。
念のために、クローゼットの奥底にしまったままの盗聴器発見器を出してみる。かつての空き巣被害の時に購入した物だ。盗まれたものは戻ってこないとあきらめはしたが、ミステリー好きのせいか、何か仕掛けられてはいないだろうかと気になって機器で調べてみたのだ。結果、特に何もなかったわけだが、数年ぶりにこれを出すとは思わなかった。
電池は買い置きがあったので、新しいのに入れ替えてスイッチを入れる。それからは、部屋のあちこちを機器を手に調査してみる。だが発見器は特に反応するわけでもなく、彼の心配事はひとつ、消えた。
「そうだよ、スパイ映画じゃあるまいし⋯⋯」
いつぞや、ゴシップ記者のモーリスに言ったと同じ言葉を口にして、彼には過去の記憶が蘇った。まさか過去に関わる事ではないだろうと。それは外務省時代の苦い記憶だ。
当時、国際開発・協力総局に所属していたジェロームは、政府開発援助ODAの資金管理や案件調整を担当するひとりだった。それは発展途上国への支援として経済発展や福祉のために資金は使われるはずである。
しかし社会的に意義のある仕事として誇りをもっていた内実は、密かに裏金を作っていた。インフラ整備や物資供給費は業者に水増し請求をさせて、差額を裏金としてプールしていたのだ。からくりに気づいた時、いや気付かされた時、裏金が外交機密費なのだと上司から知らされた。
君主制以来、秘密基金の名の元に、国家の内外安全保障に関連するさまざまな諜報任務や外部活動の資金に充てられてきたそれは、いくつかの特定の大臣の利益のために使用されてきた。外務大臣も当然それに含まれる。それは詳細が公表されない不透明な予算であり、別の用途への流用が噂されてはいた。だが21世紀の初め頃、その資金が政党や選挙運動の違法な資金として、あるいは大臣を補佐する私的なアドバイザーやブレーンのチームである大臣キャビネの職員へのボーナスに転用されるような事がスキャンダルとして公になり、以降は諜報活動にのみ限定と決定されている。
それは不都合な事だった。国益を守るための非公式な交渉金や、武器輸出の際の先方国への調整に現地政府要人への口利き料などに使えなくなった。表にできないそれらの金をカバーするための裏金が外交機密費として慣例化されてきたのだ。
「これは慣例であり、国益のための必要悪なのだ」
そう語る上司にジェロームは異議を唱えたが、すでに長年構築されていたシステムを自分ひとりの意志で崩せるはずもない。そしてそれを公にするにはあまりにも問題が大きすぎた。必要悪、その言葉の前に彼は沈黙した。見て見ぬふりをしてきたのだ。
だがそのストレスは彼の心を病んだ。不眠症になり、睡眠導入剤が手放せなくなった。うつ病の傾向も出始め、辞意を口にした。しかし上司は引き留め、パリ市役所への出向を薦めた。激務から解放されるし、市民に寄り添った仕事ができるからとはげました。それはある意味、穏便な異動だ。秘密を知った者が辞職後に声を上げないようにするためだったかもしれないが、ジェロームはそれを受け入れた。現状から逃げたい、その一心だった。
今さら、それが関係しているとは思えなかった。証拠を集めたわけではないし、今後もそれを口にする気もない。告発した場合の影響の大きさに震えた、過去の卑怯な自分がいるだけである。
だからこそ今、正義づらしてクラヴリー局長を内部告発する事ができない。穏便に汚職をやめさせる手段を探した。
そんな手段の結果が、部屋への侵入を錯覚させてしまったのだろうか。あまり良い精神状態とは言えない。身近に隠してあるから、そんな無茶な事を考えてしまうのかもしれない。ジェロームは、自宅以外の場所に隠す事を考え始めていた。
翌日に再度、クラヴリー局長へ内線電話をかけたが、今日も病欠だった。金曜なので、さすがに週明けには出勤するだろうと思われた。直接顔を合わせて、局長が入居企業をどちらにしようとしているのか、探ってみるつもりである。
ランチタイムには予定していた場所へ歩いてみる。昨夜、情報端末のミニテルを使って調べておいた店舗だ。職場から散歩程度で歩ける距離の場所に、電話代行や私書箱サービスと共にレンタルロッカーを扱っている店がある。工業団地の入居企業が決まるまで、写真を入れた封筒を、そのロッカーに入れておくつもりだ。
身の回りから離れた場所に隠しておきたい、昨夜のような不安にさいなまれないように。店舗から出てきた彼の手には、ロッカー用の細長い小さなカードキーが残った。
0 件のコメント:
コメントを投稿